亀丘城跡 (かめのおじょうあと)

KAMENOJOATO

観光情報

1293年、唐津の岸岳城主・波多宗無によって築城。その後、一時資料を欠くが、壱岐を分割支配していた松浦党五氏(志佐氏、佐志氏、呼子氏、鴨打氏、塩津留氏)を岸岳城主・波多泰(はたやすし)が滅し、城を修築した。1555年には壱岐の地方役人にあたる六人衆が蜂起して亀丘城主の波多隆(はたたかし)を討ち、さらに世継ぎ候補を相次いで殺害。この騒動は波多家の家老と後室による内紛と言われているが真相は定かではない。最終的には島原の有馬義貞の次男・藤堂丸(後の波多親)が新しく亀尾城主として迎えられたが、その後も内紛は更に広がる。1565年、波多家の家老の嫡子・日高甲斐守喜(ひだかかいのかみこのむ)が内紛に乗じて唐津の岸岳城を手に入れると、今度は波多隆の末弟の波多政(はたまさし)とともに壱岐に渡り六人衆を討ち、亀丘城を横領した。その後、壱岐全土を支配した日高氏であったが、波多親との争いは絶えなかった。波多親は対馬の宗氏に応援を求め壱岐奪還を図っていたが、そのたくらみが日高氏の耳に入ることになる。日高氏は状況不利を察し、平戸藩主・松浦隆信(まつうらたかのぶ)に壱岐をゆだね、臣下になることを約束。日高・松浦氏と波多・宗氏の全面戦争が繰り広げられることになる。1571年、日高・松浦氏は壱岐の浦海(うろみ)海岸から攻め入った宗氏率いる対馬軍を待ち伏せし、これを討ち倒した(浦海の合戦)。以降、壱岐は当初の約束通り松浦氏が治める事になる。亀丘城は壱岐市役所の東側の高台にあり、現在は亀丘城公園として整備されている。本丸跡地は大きく崩れ、北斜面に石垣が残るだけである。


住所 壱岐市郷ノ浦町本村触字大里683
アクセス ◆郷ノ浦港より/車で6分
◆芦辺港より /車で20分
◆印通寺港より/車で13分
◆壱岐空港より/車で15分
文化財 史跡(県指定)
設備 駐車場
トイレ


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